ご来場ありがとうございました。

群々「あたらしい世界」の公演が終わりました。どうもありがとうございました。
意味、必然性、エンタメ、精度、客席、社会、曖昧さ、方向性とかそういう言葉が頭の中を漂っています。
たまには率直に今感じていることを、他のメンバーはまったく関係ない、あくまで個人的な。
今日、後輩の演劇を観に行って、色々な台詞のやりとりの中で、微笑むという表現をその劇団の出演者は皆さんおそらく安易にやられているのではないかと感じたのでした。で、そういうやり易さというか流れでやってしまいがちな演技(表現)を今回の公演で僕はやってしまっていたなと気づかされました。
他にも衣裳を着るということについて。衣裳の手直しが本番を追うごとにあってデザインが多少変更され、衣裳をつくったTさんに「これで大丈夫ですか?」って聞かれて動きやすさという点しか考えず僕は「大丈夫です」と返事したんですけど、その後のTさんのちょっと疑問な表情が妙に気になっていて、で、それってもしかしてこうして変更されたデザインによってあなたの動きの意味は変わらないのですかって聞かれていたように今は思えるのです。
あとは、社会っていうことをちょっと考えてみたりして、舞台をやっている人にとって社会って観客なんだと、これ、今更気づいた。おそらく、いわゆる社会っていう広さと舞台での観客の少なさのギャップゆえに観客=社会ってことが意識できなかったです。というかその前に社会に向けて作品をつくろうとしていたのかというところに返ってくるでしょう。少なくとも僕が意識していたのは観客(どんな観客像を?)であって、観客=社会と意識したことはなかった。
で、社会を意識した時に今回のようなダンスパフォーマンスは何を提示してみせるのだろうと。小説家のミラン・クンデラは「小説は現実を探るものではなく実存を探るものです。そして実存は生起したものでなく、人間がなりうるあらゆる状態の、人間がなしうるすべての事柄の、つまり、人間のさまざまな可能性の領域なのです」と書いています。ここにヒントがあるような、ないような。そもそも、社会ってなんだろうと。社会派になりたいわけではまったくないのだけれど、いい機会なので、もう少し考えていきます。
で、公演後は映画が無性に見たくなるので見ました、インディジョーンズ。インディジョーンズじゃなくてもいいんじゃないかと思った。他の神秘系SF映画の主人公が代役しても成り立つと思った。びよよよ〜ん。
風呂入って、柔軟&腹筋して、なんか読んで、今日は寝よう。明日から校正のベンキョーを本格化させなくてはっ。ああっ。